兵庫県の「兵庫海苔」(全国漁業協同組合連合会提供)
川の栄養がほどよく注ぎ、波ちゃぷんと音する浅い海。冬の寒さが身に染みる頃、潮が引いて露(あら)わになった岩肌や消波ブロックをのぞきこむと、黒い海藻が一面まとわりつくように覆っていることがある。つまめば幅1センチ、長さ15センチくらいの密集した黒い草、これが海苔(のり)なのだ。水中では黒く見えるが、手に取り日にかざせば暗い紫色だとわかり、「紫菜(しさい)」とも呼ばれる。潮が満ちれば浸り、引けば干上がる、そのような場所に海苔は生える。江戸から昭和の頃、竹の枝を立て、付着する天然海苔を摘んでいた風情はセピア色の写真となって残っている。
海苔は胞子で増え、冬を待って発芽するのだが、胞子が夏の間は牡蠣(かき)の空き殻の中に潜り込んで眠るという驚愕(きょうがく)の事実を世に知らしめたのは、イギリスの藻類学者、ドリュー女史であった。70年余前のこの発見によって今、ニッポンの海苔養殖の技術は確立し、おいしい海苔をふんだんに食卓にて賞味するに至った。
胞子は寒くなると海中に泳ぎ出すので、これを網に付着させて杭(くい)を立てて海に張る。九州から瀬戸内海、三陸まで広く養殖されているのはほとんどがスサビノリだ。機械で刈り取って真水に浸(つ)けて殺す。この殺し具合が海苔の風味を増す。生を酢醤油(じょうゆ)で食うのもいいが、刻んで水と混ぜ、簀(す)の子に薄く漉(す)いて乾かせば「乾海苔」、これを焼けば「焼き海苔」だ。
黒い乾海苔は炙(あぶ)ると芳香とともにうっすら緑色に変わり、産地によって味わいが違う。口溶けが良く甘く柔らかい有明。生地が強く巻物にしても割れない熊本や明石、普段使いで庶民の味方の三河、宮城、岡山。東京湾の海苔は、四大河川に養われた草の味がする。真水に恵まれた場所では、時として青海苔が混じることがあって、これを一緒に加工したのを「青混ぜ」という。かつて浦安が東京湾随一の生産を誇った頃、この海苔の味わいこそが郷土の宝であった。今でも噛(か)めば豊かな海がよみがえる。
ウエカツ水産代表。昭和39年生まれ、島根県出雲市出身。長崎大水産学部卒。大学を休学して漁師に。平成3年、水産庁入庁。27年に退職。「魚の伝道師」として料理とトークを通じて魚食の復興に取り組む。